高校時代の実録

毎日を過ごして、感じたことを日記のように文章にしていこうと思います。

7.薬害

その日の十九時頃、私はすでに食事会の集合場所である少しひなびた感じのする中華料理店で友人たちと会っていた。友人たち(友人と呼べるほど親しい人は数少ないが)は入学から丸一年で起こった思い出について終始楽しそうに話していた。しかし、私はというと、そのような余裕はなく、彼女のことを思い、ごく短いインターバルで携帯に目を落としていた。


   あの時、私はあまりの焦りから記憶が多く残っていない。彼女は元の関係に戻らないかと言ったのだ。そのことに対して、私は嫌で嫌で仕方がなかったため、必死になって私の考えを言い聞かせた。君が私のことに恋愛感情を持っていないというのは元より承知している。ただ、これから私のことを好きになってくれればよいのだ。私は努力するつもりだ。君が私のことを好きと言ってくれるように精一杯の努力をするから、どうか、そんな事は言わないでおくれ。私はおそらくこのようなことを言った。やっぱり優しいねと彼女は言った。しかし、関係を終わらせるという考えを取り除くには至らなかった。彼女は時間が欲しいと言った。しかし私は明朝にアメリカへと短期留学で旅立つ定めであったのだ。時間のない私は今晩電話をかけてくれるように頼んだ。彼女は曖昧な返事をしたが私はもう一度話す気でいた。今の彼女をここに残して旅立ってしまうと、帰って来る頃には消えて無くなってしまっているのではないかと危惧したので、旅立つ前に彼女を言い聞かせたかったのだった。


   こういう経緯によって、私は今のような落ち着きのない状態に置かれているわけだ。しばらく私はエビチリだの唐揚げだの皿に並べらた中華風の料理を食べていたが、まるで味がしなかった。また、両隣には親友が座って、いたずら話だの武勇伝だのを面白おかしく語ってくれていたが、両耳のトンネルが開通してしまったのか、内容が頭に留まることを知らない。ずっと彼女のことを考えていたい私は多少の苛立ちを感じつつあったのでお手洗いに逃げ込んだ。鏡にはぶっきらぼうな私の顔が映っている。もう終わりまでここにいようかと考えた。しかしここで、携帯を見てみると彼女から今なら電話に出れるというメッセージが届いていた。私はすぐさま電話をかけたかったが、ここでは話しているのを他人、あるいは知人に聞かれる恐れがあったので、店外の駐車場まで走ってからかけた。

 

   十コールほど鳴った後、彼女は出た。私は、多忙にもかかわらず電話に出させてしまってすまないと一つ謝ったのちに、説法を始めようとしたが、手洗いから飛び出してそのまま電話をかけたので頭が整理を必要としていた。しばらく沈黙してしまい、何か喋らないとという焦燥に駆られ、例の喋り方になってしまった。まるで何を言っているのか分からない。しかし少しすると辛うじてまともになった。そして私は、脅し文句のようなことを言い放った。私は君が思うほど優しくはないんだ。君が私との関係を元に戻したいというなら、今後君とは会わないつもりだ。もちろん出かけたりもしない、と言った。しかし、私とこれからもベタナギの関係を続けたい彼女にとってはひどい仕打ちのようなものだろう。もちろん私は仕打ちなどをしたいと思ってるわけではない。彼女を愛しているから、愛しているからこそである。彼女が言う、今までの関係を続けるとは、これまで通り出かけて、これまで通りご飯を食べて、これまで通りの会話をすると言うことであろう。私は辛かった。それは彼女の方が辛いのかもしれないが、私も愛す人と一緒に出かけてもこれまで通りの領域でしか彼女と接することしかできないと思うと相応の辛さがあった。私はこれまで知れ得なかった彼女が知りたいのだ。幼馴染という領域の外へ踏み入れたかったのだ。しかしそのことが、愛していると言うことをうまく言えなかった。また例の喋り方に戻ってしまった。まるで気狂だ。意味のないことを繰り返し言った。気狂という自覚がさらなる混乱へ私を招いた。そして、私は話を切り上げてしまった。


   とても後悔した。翌日、空港へ集合時間の二時間前に着いたが何もすることがなかったために、悔恨の念に溺れ苦しんでいた。きっと彼女は悲しんでいるだろう。なぜ、純粋で傷つきやすく、さらに部活のことで精神的に辛いであろうと気づいていたのにもかかわらず、あのようなひどいことを言ってしまったのだろうか。最後にもう一度会いたい。彼女は帰国後には返事を伝えると言っていた。返事を宣告される前に私は今一度謝った伝わったであろう私の気持ちを伝えたいと切に願った。しかし、それは叶わないのである。私は3週間ほどの短い期間であるが、日本を発った。


   私は向こうでなかなか上等な生活を送らせてもらった。私とホストとの趣味が合ったこともあって、良いようにしてもらった。序盤、彼女のことが気になりはしたが、異言語空間というこれまでに行ったことのない場所が私の神経を半強制的に酷使させたのであろうか、宵は思索に耽る暇もなくベッドの上に倒れ込んではすぐに眠りに就いた。滞在も終わりが1週間後に迫る頃、余裕が出てきた私は彼女に、電話させてくれ、日本が12時ごろの時にかけようと思う。差し支えないか?、とメッセージを送った。二十四時間ほど経過した頃返事が来た。今なら大丈夫だよ。私は、サクラメントの高校へと留学生として通い授業なども受講していたのだが、私のリスニング力は乏しく、授業中は暇を持て余していたので、彼女と話せるならばどのようなことを話すか考えていた。その甲斐あって、今度こそまともな人間のように話す自信はあった。そして夜、自室で1人電話をかけた。


   また、私は何度も電話してすまないと礼を挟んでから話し始めた。今度は人間のように話せて、話し終わると少し安心した。これで彼女は考えを変えてくれるだろうと思った。その矢先である。彼女は大方考えを固めていたのだろう。もう遅かった。正直私の言葉がどうであれ、宣告を行なうつもりであったのだろう。もうあなたとは付き合うつもりはない。あっけない。今まで彼女の進路を変えてやろうと必死になっていたが徒労に終わった。あぁ、そうか、仕方ない、そうか、すまなかった、このような言葉を並べ早々に別れた。中華料理店のガレージの時とは違い後悔はなかった。特に感情がなかったが終わりだと悟った。もともと幻想だったのだ。私が彼女と付き合い、堂々と愛でるなどそんなユートピアは幻想であると心中感づいていたのであろう。だから私は無感情。しかし、無感情と言いつつも目が潤い、手足が震えている。気候のせいではないだろう。幻想という麻薬が私の体に麻酔をかけているのかもしれない。とすれば麻酔のせいで無感情になり、副作用で手足をガタつかせているのだ。私はベッドで横になり、目を瞑っていた。しばらくすると麻酔が切れた。静かにめから一滴の水がこぼれた。悲しみ、苦しい。帰国しても誰も待っていないように思われた。

 

   その後、なんとなく過ごし、帰国の日を迎えた。二者択一、生きるか死ぬか、いつからかこのようなことを考え始めていた。このまま悲しみに暮れて積極性など放り捨て漂うように生きるか、もしくは、帰郷してそのまま太平洋に身を投じるか。そのようなことを考えて十三時間ほどのバスと飛行機を乗り継いで三月三十一日の日本に着いた。なぜ失恋したぐらいで自害をするのか、そう思う人が多いだろう。そう言う人たちが恋を経験したか否かは知らないが、失恋の悲しみとは対象者の尊さに応じて辛いものとなると私は信じている。私は彼女を、宗教的にいえばキリストのように尊び、幻想的にいえば童話の姫様のごとく大事にして積年一方通行でありながらも愛を注いでいた。愛国信者が崩御を以って殉死するに近いだろう。